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02/08/2008

Comments

alex815

投稿させていただいていた内容について、もし読まれた方がいるならば、どのような受け取りかたをされるのかをもう一度考え補足させていただき、ご迷惑が及んだのなら深くお詫びさせてください。

下という漢字を使用しましたが、決して下げるという意味で、何らかのドイツの思想を侮蔑しようとしているのではないです。

ですから、基が適切だったということもできます。
では、なぜ下としたのかを説明させてください。

下の配慮についての根本に地の概念があります。
基は地の上の礎となるもとであり、下は配慮の根本の亞となるもとです。

それらは共に地の概念と宥和しています。
配慮の根本が地であるのは、地層の整合と不整合の概念から形成され、派生していったと考えています。
それはひとつにイオニア自然哲学のアナクシマンドロスの箴言に依拠するものです。

また、"手紙"の内容は個人的な部分が多くあり、そのために多く誤解をされ兼ねない表現になったことを深くお詫びいたします。

理性については、対立ではなく鼎立した概念を持とう、という意味合いを込めて使用しました。
善悪ではなく感性・悟性・理性での思考を、という意味です。
全てにおいて簡単に表記しすぎるため、多く誤解が生じたことは反省しています。

撞着している概念については、積極的に支配ということと哀れみを同時に、というものではなく、おそらく真偽命題においての論理の発展には、撞着語法が重要だというものです。
他のコメント欄に書かせていただいたのですが、王や花や支配者や眼など、特に括弧で括られた単語の概念に意味はありません。
それらの概念自体は悉く空です。
意味を繋ぐのは、星辰のような観念であり、それを荷うことと、その外について沈思することは、しかしながら相容れることです。
そこで多くの人に伝えてもらうために、このような"手紙"になったのです。

また、最後になりますが、このブログのコメント欄に投稿すべきであったか、私自身わかりません。
しかし、伝わるはずだと思って広めて貰うことを選びました。ただ、やはりその手法については、適切ではなかったのかもしれません。


alex815

私は今もハイデッガーに尊敬と感謝の念を抱き、ヘルダーリンと共に有ることに変わりはないです。

*お知らせするメールアドレスは、引越しによるプロバイダの解約のために変更しています。

alex815

もうひとつ沈黙されるべき領域があります。

それが自然である元の領域です。

これについては私自身も沈黙しなければなりません。

alex815

下記の文章について、読み返してみたところ、分かりづらいところがありましたので、補足させてください。

故郷を見出し帰郷することは、旅立った故郷に帰郷するとは限りません。
であるから、見出すのです。
そして、その見出した故郷に、それは生まれ故郷か辿り着いた故郷かはその固有のあり方に縁りますが、そこに帰郷するのです。
これは、理由の後付けではなく、もともとドイツの思想家の考えを下にしたものです。

それと以前にも書きましたが、美しいと感じたのは個人的なことですので、人にはそれぞれいろいろな魅力があっていいと私は思います。
それを人と出会い、見つけていく事が尊いということです。
決してこうでなくてはならないというような美的な型に嵌めたものではありません。
普遍的に言い換えれば、その固有の生の輝きであること、と考えてください。

花や王についても、さまざまな受け取られ方が考えられます。
美的な勝者ではなく、存在している輝きと尊さを見出すということです。

これは本来、沈黙されるべき領域です。
しかし、言葉にしなくてはなりませんでしたので、花や王という概念の記号を当て嵌めることしか方法がありませんでした。
つまり、生きていることは、生きているという概念とは異なるということです。

進化についても、思索の根幹にあるのは自然であることと考えています。

そのため、いくつか補足させていただきました。

alex815 最後の手紙

本当に最後の手紙になります。

私の文章を、心からこのブログをご覧になっている方だけでなく、私のような迷いがあった多くの方々に読んでいただき、伝えていってほしいのです。

下の「犬からの手紙」に対する考察として、『人間の使命は、私のルソーとホッブズに対する和解案である自然状態を、花。つまり、死を弔う心とそこから生まれる詩、即ち、やさしさである。』としました。

最後の手紙では、"もう一つの"人間の使命をお伝えさせてください。

それはこの星、地球の「王者」であるという責任です。

以前にも申し上げましたが、私は犬が好きですが、犬ではありません。人間です。
ですから、犬に「人には人の道があること、犬には犬の道があること」を教えていく責任と義務があります。

我々は、死を哀れみ、他人を思い遣るだけでは、「王者」たる責任を果たしていません。
「支配者」である自覚を、市民として果たす義務があります。

生死を賭けて、冒険し、故郷を見出し、秩序を築く、その責任です。
これは二ーチェの「神が死んだ」後の「超人になるための力への意思」です。

それは「理性」で思考することを必要条件としています。
理性なき闘争は、単なる戦争か差別・侮蔑に終わり、無に帰します。

「理性」はカントに準備され、フィヒテ、シェリングと来て、ヘーゲルの弁証法によって確立されました。
「日常的な悟性」によるテーゼとアンチテーゼが「理性」によって止揚されること、つまり、ここでは、『どうしたら社会が自由で平等で平和になるか、を市民として自覚して社会で責任と義務を担って生きていくこと』です。

二元論で考えると、かつての私である前者は弱者、そして後者は強者です。
しかし、換言すると「自然であるやさしさ」と「社会の秩序を担う誇り」です。

私の本当に言いたかったことは、このどちらだけでも、人は滅んでしまうから、それらが戦争ではない「闘争」をしなければならない、そして、全てが一つになり、それが人間の歴史においての止揚、即ち「進化」である、ということです。

そして、これがマルクスによる最後の弁証法、史的唯物論です。

その「闘争」は、まず、おのおのが「固有の相応しいあり方」を知ること、から始まります。
そのための、故郷を旅立ち冒険し、「闘争」をして相応しい故郷を見出し、帰郷するのです。

「固有のあり方」を見つけるために旅立ち、双方がぶつかり合うのです。そして、「故郷のもの」と「異郷のもの」とが一つになるのです。

それが、止揚されるまで何年かかるか、おそらく人には分からないでしょう。
それを知悉されていたのは、「神様」だけです。
その「神様」は、ニーチェの言うように地上にはもういません。

ですから、私たち人間が、それぞれの相応しい「使命」を果たすために、社会に出て、市民として義務と責任を担い、「進化」していかなければならないのです。

そのためには、どちらか一方が滅びを迎える戦争はやめなければならない、そのために、戦争や差別・侮蔑ではない「闘争」をしなければならない、ということです。

そして、人々が混ざり合い、宥和し、調和した時、その「時」がそれが平和に成ることだ、と私は考えています。

おそらく、ベンジャミン・フルフォードさんもこのことを伝えてくださるために、日本に来られたのではないかと考えています。

つまり、『我々は、この地球の王者であるけれども「UFOに乗った宇宙人」でもなければ「恐竜が人の姿をした爬虫類人」でもなく、人間である。だから、自然である「やさしさ」と市民としての「秩序」を見出していってほしい』ということだと思います。

最後に、私は犬から始まり、人間になることができました。

この社会に、感謝しなければなりませんし、使命を自覚し、担い受け継いでいかなければなりません。

そうしないと、また犬と呼ばれたり、爬虫類と呼ばれてしまうでしょう。
しかし、他人を、犬や爬虫類と呼んで侮辱したりする事では、人間にはなれません。
なぜなら、自分のあり方をまず自分で決めるからです。

ギリシア哲学から、弁証法に即して説明させていただきましたが、仏教でもこのような面があります。
「悟り」をある地では「生においての死」と伝え、またある地では「安らぎの境地」と伝え、またある地では「勝者」と伝えました。
この3つの内、1つでも滅してしまっては、全体が一つに成り得ません。

この社会のために、人間は、このことを伝えていく使命があります。

地球の「花」であることと「王者」であること、この二つが、過ちと問いと共に、生きて担われなければならないのです。

私は、このことを気付かせてくれた「王者」である「美しい眼」の人に、本当の事だったと今も思っています。

この手紙が、多くの人々に読んでいただき、目覚めていただくことを願っています。

alex815

何度も申し訳ありません。

下の投稿させていただいたのですが、誤解を招くようなものになっているので、補足させてください。

私は社会でいろいろな活躍されている方が好ましいです。
凄い事をしていると感じれば、尊敬しますし、自分もそうなれるよう努力したいと思っています。
ですから、今の社会は根底から間違っているから全ての価値を否定しようなどとは、考えていないです。
私は平和活動を否定しているわけでなく、ただ応援といっていいほど協力できることはないのですが、役立てることにつながればと考えたことです。

一般に、テレビや新聞、本・雑誌などで、平和は理想主義の空論だから実現できない、現実的でないという意見を耳にします。
その議論として、平和の実現を、では、どうしたら実現できるのだろうを、むしろどうして実現できないのだろう、
と置き換えて考えてみたのが下のものです。

また、もうひとつのきっかけは、価値を求めていくための競争は是認されるべきだけれども、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』ではないですが、蹴落としあいではないのではないかと考えたことです。
そして、その理由を誰かが悪いからだとは、どうしてもしたくなかったということです。
これは、私が命を落とす事になっても、生きていくためだからといって殺していくことはしないというものです。
そのために、どうしたら、悪いから社会から追い出してしまえばいいなどではなくて、少なくても社会理念に基づく論理的思考によって、実現したらよいかと考えたものです。

そのため、何らかの戦争を肯定するものではないです。
ヘラクレイトスの闘争についても、闘争が善悪をつくったということではなく、彼の根本思想は「万物の根源は火」ですから、それら一なるものが全であるということです。
ですから、戦争を肯定して社会を発展させることが良いという意味ではないです。
それは良い悪いを超えた人間のあり方を模索するものです。
そして、それが闘争であるということです。

また、細かい点ですが、始めの鍵括弧の読点は余計でした。
読みづらいものになり、申し訳ありません。

前投稿からのつながりについてですが、始めから計画を立てて、自分の意見を目立たせようとして、質問形式にしたのではないです。
その都度、どうしたらよいかを考えていったものです。
2月に投稿させていただいた段階では、3月に投稿させていただいたことのはっきりとした思考があったわけではなく、漠然とした考えでした。
投稿させていただい事が自分はっきりと考えを書かなければ、ただ誤解を招く恐れがあると考え、暫く間が空きましたが投稿させていただいた次第です。

繰り返しになってしまいますが、誰かに嫌がらせをしようなどとは考えていないです。
事実、他の方の間に挟んだ形になった投稿なさった文章は、ネット上に私と同時に掲載されました。
ですから、私の投稿と関係はなく投稿されたものとあくまで私自身の見解として考えられます。

また、内容的に失礼な投稿となった部分について、深く重ねてお詫び致します。

Alex

ベンジャミン・フルフォードさんと閲覧されている皆様へ

4回目の投稿になります。
下記の2つとその他の1つのいづれも、"犬"について書かせていただきました。

いくつかの文が、疑問を投げかける形になりました。
フルフォードさんに迷ってらっしゃると発言した事については、非常に失礼でしたが、その他の言葉も含め、自身に向けての問いであったと考えています。

つまり、迷い犬になって考えてみたわけです。

そして、自分に端を発した問いは、自身によって解を探求しなければ、至る所、空疎な概念に尽きるでしょう。

これは矛盾に聞こえるかもしれません。
内容が、「善悪は二元論的価値付与の概念形成の1要素に過ぎないのだから、対概念は遍く空疎である。」と受け取られるようなものだからです。

つまり、何らかの答え、ここでは「平和で貧困のない社会」であったりしますが、これが「戦争していて格差のある社会」と対を成している以上、本質は変わらないというものです。

ここで当然生じてくる疑問である本質が何かについては、ここでは論じることを控えますが、全き善は他方からすれば全き悪でしかないとする認識しか論理的に不可能である、ということです。

つまり今日の社会は"全知全能の人を超えた全てを見渡せる神の目"によって支配されていれば"良い"のではないのです。
なぜなら、そのような存在は概念の中にしかあり得ないので、空疎な"良い社会"が出来上がるのも必定です。

これは約2000年前にプロタゴラスにたちが考案した世界です。
「人間は万物の尺度である」と彼は言いました。

つまりいくら定規とコンパスを用いても、相対的な尺度でしかないのです。

ただ、彼の師であるでデモクリトスは、原子論を唱え今日の唯物論を、客観的なものの見方を確かに示しましたが、それは主観に対しての客観、観念に対しての唯物でしかなく、絶対的なものの見方を示したのではないのです。

つまり、何らかの「客観」存在であるAというものが実在していることは「真実」である、ということは、概念形成によるA=Aという認識しかできない。
よって、すべて仮象であるとするパルメニデスの思考は、論理の限界の境域を示唆しています。

であるからこそ、ソフィストたるのですが、ここでベンジャミン・フルフォードさんのこのブログのテーマに戻り「平和」について考えたいのですが、それは換言すれば、秩序について考えることとします。

ここで自分自身の疑問、「世界で創めて起こった国家は今、どうなっているでしょうか?」が跳ね返ってきます。

しかし、解答は「ソフィストたちの社会は相対価値による秩序付けだったので、絶対的な権力による支配が良い社会を創る」などというものでも、「空疎な概念では社会の形態が実体なき空疎なものに帰するのだから、自由で平等な社会は自然のみである」というのでもありません。

ただ、これらは仮定条件としては"正しい"のです。
というのは、先の命題、即ち今日の社会理念、そのものが循環論法に陥ることを前提としているからです。

少なくとも、ここでホッブズとルソーに和解をしてもらわなくてはなりません。
無政府状態が、闘争かリスクを回避するための非闘争かを、秩序のための原因とすることは、リアリズムとヒューマニズムの差でしかないものです。

最初の秩序は、「殺されるなら、殺すのか、それとも殺されないと信じて願うのか」と等価交換できるようにしたシステムであると思います。
つまり、間に「金」を挟んで価値の等価交換をしたように、「法」を挟んで利益関係で結ばせたのです。
ですから、いくら秩序があってもそれそのものを破壊しようとするものに対しては効果がないのですから、前者の方を良として採用していったのは「正しい計算」です。

しかし、この「正しい計算」を教育によって全ての人類に教科し、実行させ「秩序」としたらどうなるかは、今日の社会がそうなのですから周知のとおりです。

価値判断による秩序は、万人の万人による闘争に始まり、万人の万人による闘争に終わるのです。
万人の万人による秩序は、万人の万人による価値判断(善悪、損得、主観客観)に依っているからです。

最大多数の最大幸福を目指した功利主義者の「自分の利益は他人の不利益である」ことは、規範は、他人の不道徳を必要としていることに等しいのです。

自分(達)が道徳的であるためには、他人(達)が不道徳であることが必要条件です。
全ての人間が道徳的で正しいという秩序は、無意味な無政府状態と変わりがない秩序になります。
であるから、最大多数の法則が成り立つわけです。
つまり、プラグマティストの「少数の人間が不利益を被らなければ、社会は成立しない」というものです。

ですから、今日の形態の民主主義自体に、或いは同様の社会主義自体に問題が生じているのであって、民族や特定の考えを持つ集団などの社会の問題が"平和な秩序ある社会"を破壊しているのではないと思います。
また、上記の今日の社会の形態の改善を、ある一部に原因を求めても、Aという記号に何を当て嵌めても、終わりのない繰り返しです。

人の言動を規範に沿ったものするために押し付けようとしても、より機能するより価値のある概念に当て嵌めているに過ぎません。

これしか選択し得ないのだからこの"客観的とされている主観的な唯物論"という矛盾になってしまっている"正しく論理的"な相対的な循環理論を選択して、社会を形成し秩序を維持しようという思考は、人類を滅亡に導くだけで、国家的正義・義務・責任という概念によって平和・自由・平等を得ることは「正しい」闘争に行き着くだけであるということです。

この規範などの価値、ストイックやスパルタ教育などを、肯定・否定すれば社会が変わり良くなるというのでもないです。

ここで、もう一つの問い、「言葉はどこから生まれたものでしょうか?」を考えてみたいと思います。

これは「ある民族が世界で最初に言語を使用した、それは我々である。ゆえに、優秀だ」というのではないですし、それは劣等感に基づく自己正当化です。

そうではなく、「言葉に芸術は先立つ」ということです。
"花を美しいと思った"のが人間です。
そして、死を悲しみ弔い、埋葬を花でいっぱいにして、生と死を結んだ。

私は、このベンジャミン・フルフォードさんのブログのこのページをお借りして、はじめの投稿に書かせていただいたように、ルソーの「自然に還れ」の言葉を、ホッブズとルソーの和解を「社会契約論」に拠るのではなく、上のこの言葉で「自然(状態)」としたいと思います。

このことが、負ではない創造、無に帰する闘争ではない秩序を、一方で築いてきた人間の価値の有ることです。

このことを語り継いでいくことが、私達、人の使命だと考えています。

最後に、ギリシャの先人達に登場していただいたので、ヘラクレイトスの言葉で締め括らせてください。

「闘争は万物の父である。それは戦争平和であり、善悪であり・・・」

これで今回の私の考察は終わらせていただきますが、実はベンジャミン・フルフォードさんに直にお会いした事はありません。
ですから、本当だったと考えさせてくれた眼は、個人的なものでした。
そのことをいつも心において考えているので、このような文になった事をお詫びいたします。

追伸ですが、今回から名前を決めましたので、次回どこかの記事に投稿させていただく際は、宜しくお願いいたします。


本当は犬ではなくて人です

下記の「犬からの手紙」という文を投稿させていただいた者です。

自分なりに悪気はなく本当のことを考えたつもりがでしたが、皮肉のように受け取られる内容になっていたことに気づき、反省しています。

また、決してフルフォードさんや、その他の方を批判するものではないです。

もし、フルフォードさんをはじめ読まれた方が不快になられましたら、お詫びいたします。

おっとと

大谷さんはユニークな活動でグローバルネットワークでの活動など去年のはじめ頃まで精力的にやっておられたが何故か最近マスコミの話題にならなくなっていた、あの様な積極的な方が自殺するなど考えられない、精神系薬物で自殺に追い込まれた?

思い出すのは映画「丸暴の女」などでヤクザ等に睨まれた映画伊丹十三監督の自殺と似ている気がする。カルトの犯罪をテーマにした作品を企画して殺された。何らかの薬物で強度のウツ病を発症させ、通院治療を受け抗鬱病剤を用いると自殺すると言う薬物である。カルト系が用いる手口で保険金詐欺などでも使われる。

多分その辺りをテーマにした演劇など企画しようとしたのかもしれない。マスコミが余り取り上げなくなった人や、その分野の人には良く知られた人だが一般にはあまり知名度が無い人が狙われる。ジャーナリスト、市民運動家など、日本は暗殺天国だから怖い物です。

米国では暗殺より銃乱射などで何らかの工作が感じられる。手法は解らないがどう考えても最近の米国は異常である。米国国民の家畜化にとって銃の存在が邪魔なのだろう、また国民にテロを連想させる恐怖を与える為かもしれない。

銃社会と言えばフィルピンなど米国以上である。しかし銃乱射事件など聞いた事が無い。暗殺でも銃撃は殆ど無く軍などの犯行以外は極めて少ない。もっとも米国が国民に銃を与えたのは国民主権であると錯覚させる為だった。

その錯覚を利用して米国のナチ集団はやりたい放題の事をやっている。平気で国民にも銃口を向ける。イラクでの米軍の行動あまりにも非道です。そんな残虐性を米国人は以前から持っていたのだろうか。何かの薬物が使われているのだろうか?、

かつて日本軍は兵隊に覚せい剤をばら撒き非道な兵士にしようとしたが、結果バンザイ突撃など、兵士の自殺特攻に走らせた。ベトナム戦争では米軍は薬物を使った、麻薬ずけに兵士をした。薬物を使った工作と言うのは最も卑劣な行為である。

魔女狩などやった卑劣な英国式文化だと言えるのだが、ナポレオンまで薬殺した英国支配構造と言う恐ろしさでもある。またテロと言う考えもそうである。弱者が反抗すればテロと言われ、反抗は人間と生きる権利であり、犯罪ではない。

世界中のテロと呼ばれる物は殆どが英米による工作であり、最大の物は911である。殆どの国ではテロと言う発想すら無い。日本の特攻は戦に破れ武士の最後の死に様を敵にみせるもので、戦果より死に方が重視された。もっとも皆で渡れば怖く無い的な、一斉蜂起大量特攻をした菊水作戦では思わぬ戦果が上がってしまった。

もっとも天皇の命乞い交渉の為の時間稼ぎだった。そしてその事により広島長崎に原爆投下をさせた、日本も新型爆弾として7月の実験は知っていた。そんなロス支配売国天皇だった。そして国民の反発を恐れ満州や中国大陸の国民の帰国を妨害した。負けるための戦争を仕込んだのも彼で、最後は本物のバンパイアとなった。(大量輸血で生き延びようとした)

狂気の専制君主の指導者だった。天皇の崩御の際皇居広場に記帳に行った、あまりに寂しい記帳者数で、私は家族だけで無く知り合いの名前を適当な住所つけて20数件書き込んだ、そして愛犬の名前や伝書鳩の名前まで書き込んだ。多くの人が数名以上書き込んでいた。

しかしそれでも記帳者は10万人程度だった、わわてた宮内庁は市町村にまで記帳所を設け自治体職員などに半ば強制的に記帳させた。それでも最終20万名しか記帳は集まらなかった。おそろしく不人気であった。

また恐怖の天皇がいなくなった事で、各地で神仏の分離が市民や檀家の手で行なわれ、偽者神社が取り払われた。鳥居等が撤去された。しかしその実行にSKGKが活用され背後にロスの動きが見られ、日本の戦争が悪だとする工作だった。同時に靖国批判が噴出し始め、海外に拡大した。

古来からの神社でも淘汰が行なわれ、正当シャーマン神社は衰退し、ダビデの星などを祭る神社だけが隆盛となった。そして偽右翼と公安が真っ当な右翼を排除した。そして、正当右翼は地下へもぐった。

元々英国勢力によってでっち上げられた天皇だったから役目を忠実に果たしたのではある。軍の反対を無視してビルマのホロコーストを実行した。悪魔の実行者になることに唯一抵抗した天皇は大正天皇だった、その為軟禁され殺された。

現天皇はロックフェラーに近付き、ロスの影響を弱めようとした、そこでロック対ロスの争いが宮内庁をも巻き込んだ、そして巻き込まれ攻撃されたのが皇后と皇太子と皇太子妃だった、主治医まででっち上げの逮捕が行なわれ、そして秋篠宮をも巻き込んで暗殺の危機が迫った、そして脅しと口封じの為高円宮も殺された。

この国は天皇から国民まで暗殺の恐怖により売国奴の支配により滅ぼされようとしている。成立がロスチャイルドの捏造であれ、如何に懐柔されようとも、天皇は国民の象徴で、存在が多大な国民犠牲を伴ったが存在を守ろうとする人たちの尽力で国家の存在を守ってきた。

日本国は中国やインドの反ロスチャイルド、反ロックフェラー勢力と手を結びそして孤軍奮闘するプーチン、ロスの暗殺の危機とも戦っている。彼とも協力し合わなければいけない。ロスやロックなどの国際支配者の総資産は2000兆円程度、日本の総資産は2700兆円ある、十分に戦えるはずだ。

真実と言う強い味方を得て、まずはマスコミによる洗脳から人々を解放しよう。それには新聞の購読を止めよう、テレビも選択してみよう、そして多くの情報をネット上に公開しよう。世界の現在の支配者手段がなぜ極悪非道な事を続けるのだろうか?それは報復への恐怖からであり、彼らが恐れるのは報復である。

彼らは少数であり全ての事に恐怖を感じる弱虫だ、我々は彼らにより強くたくましくなった、我々が受けている何十倍の恐怖も返す事が出来る。その為の秘密結社も育てよう。情報支配を我々の手に取り戻そう。そう成れば彼らは従うしかないであろう。彼らに従うのではなく従わせるのだ。そして彼らの富を良い事に使わせよう。そうすれば彼らも恐怖から救われるのである。

犬からの手紙

ベンジャミン・フルフォードさんへ

ベンジャミンさんは迷ってらっしゃるのではないでしょうか?

あなたがアマゾンのシャーマンに会い、禅とその精神を知りに日本に来られたのは、死を逃れる術はないのだと、それが自然の法なのだと、血が教えてくれたからではないでしょうか?

あなたは、善によって、またそれに等しい悪によって、あなたの行為に対する酬いとして「ポチの頭を良し良し」としてやるように飼い主にされて、その価値に満足する人間ではないのでしょう。
いくら石碑に刻もうと、大きな墓を造らせようと、地層は何も語ってはくれません。
言葉は最も危険なものです。
それはどこから生まれたものでしょうか?

世界で創めて起こった国家は今、どうなっているでしょうか?

私は、あなたが日本で見せた眼は、本当だったのではないかと、考える事ができます。
目覚めていて下さい。

憂国

社会から憂き目もなしに葬られし無数の人たちは?

NST

やはり明治維新ですか。ベンジャミンさんの役柄は誰だったのか教えてもらえませんか?その他のキャスティングも気になります。

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